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フジテレビのドラマと聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろう。例えば――「月9」に代表される、人気俳優が主演するオシャレな恋愛系ドラマを思い浮かべるかもしれない。あるいは個性的なバイ・プレーヤーが活躍する コミカルな職業系ドラマか。 いずれにせよ、フジのドラマといえばドラマ界の一丁目一番地。テレビ界全体の視聴率低下が叫ばれる今も、何かと注目を浴びる存在なのは間違いない。ところが、である。そんなフジのドラマが注目を浴びるようになったのは、わずかこの20年ほど。フジテレビ50年の歴史の中で、前半の30年間は、残念ながらフジのドラマ は他局の後塵を拝するような状況だったのだ。
- 指南役 草場滋(くさばしげる)
メディア・プランナー。エンタテインメント企画集団「指南役」代表。日経エンタテインメント誌に「テレビ証券」を連載中。近著「『考え方』の考え方」(大和書房)。
母と子のフジテレビ
フジテレビが開局したのは、1959年3月1日。
民放キー局では日本テレビ、TBS、NET(現・テレビ朝日)に次ぐ4番目の開局になる。主な出資元はニッポン放送と文化放送。そのため、他局や他業界からの引き抜きは行わず、社員は全て両ラジオ局からの移籍組や出向者でまかなわれたとい
う。
ドラマ班に配置されたのは10人ほど。
その多くは島田親一氏や小川秀夫氏、森川時久氏などラジオドラマのディレクターだったが、中にドラマ未経験者も若干名いた。のちに人気ディレクターになる
五社英雄氏や岡田太郎氏もそうで、ラジオ時代は運行係りなどを担当しており、フジに来て初めてドラマを手掛けたという。
いやはや、人の才能というのは分からない。
開局からまもなく、あの有名なキャッチフレーズが生まれる。
そう、「母と子のフジテレビ」である。
発案者は、当時の編成部長の村上七郎氏。氏はニッポン放送時代、「婦人専門局」という編成方針を掲げて成功した実績があり、その路線を再び狙ったものと思
われる。先発局に追いつくには、「プロレスの日本テレビ」や「ドラマのTBS」に匹敵する、何か強烈なイメージを植えつけないといけないからである。
日本初の昼ドラ
その方針が、 意外な形で早くも実現する。 1960年7月。日本初の昼ドラ「日日の背信」の大ヒットである。 本来、「母と子のフジテレビ」は、教育的な健全な番組編成を意味していた。例えば、日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートを流したり、海外の文化や 風俗を紹介するドキュメンタリー番組を流したり――。だが、それらの良質な番組は視聴率が上がらず、苦戦を強いられていた。 その最中、それまで不毛地帯と言われていた昼の時間帯に、主婦向けの連続ドラマが企画される。発案者は岡田太郎氏。他局が主婦向けの教養番組を流してい たところに、彼はメロドラマを流すことを思いついたのである。 亭主も子供もいない時間帯に、禁断のラブシーンを流す――。 原作は丹波文雄の長編小説。お妾さんが他人の亭主と禁断の愛欲を重ねる話で、当時、カムバックを果たしたばかりの池内淳子の起用も当たり、彼女は「よろ めき女優」と呼ばれ、一躍時の人になった。 また、演出の岡田太郎氏も本作品で、そのアップを多用するカメラワークが評判を呼び、「アップの太郎」の異名を取る。女優・吉永小百合と婚約する13年前 の話である。 この「日日の背信」の大ヒットを契機に、以後、他局も昼の時間帯に主婦向けのドラマを流すようになり、今日の“昼ドラ”のスタイルが確立されたのである。
五社協定の壁
テレビ草創期 は、フジテレビに限らずテレビ局各社は、当時の娯楽の王様だった映画界という巨大な存在に苦労させられた。 それは、1956年7月に松竹・東宝・新東宝・東映・大映の5社からなる日本映画連合会が、テレビへの映画作品の提供打ち切りと、専属俳優の出演を制限 したことに端を発する。 いわゆる「五社協定」である。 翌年、これに日活も加わり、テレビ局各社は、ドル箱の日本映画と映画スターの供給路を完全に絶たれたのである。 とは言え、テレビ放送は毎日やってくる。穴を空けるわけにはいかない。そこでとられた方策が、外国テレビ映画の輸入と、舞台俳優の起用であった。 だが、これが意外な効果を生む。 主にアメリカから輸入されたテレビ映画は、当時の日本のドラマ制作能力が未熟だったこともあり、その高いクオリティで視聴者の人気を大いに博したのだ。例 えば、フジテレビでは「ローン・レンジャー」「ペリー・メイスン」「うちのママは世界一」「87分署」「ミスター・エド」「ルート66」などが放映され、 高視聴率を獲得した。 極めつけは、TBSが輸入した元祖メディカルドラマの「ベン・ケーシー」だろう。 1963年1月11日には、驚異の50・6%を記録したのである。 また、舞台俳優の起用は、草創期のドラマの多くが生放送だったこともあり、舞台で鍛えられた彼らのナマの芝居に助けられる部分も多かった。当時、VTRは まだ高価で、編集も容易ではなかったのだ。むしろ1カットずつ撮影していく映画俳優では務まりにくい環境だった。 そうして、文学座・俳優座・民芸の御三家をはじめ、新劇や新派から多くの無名俳優がテレビドラマの担い手になり、テレビが生んだ新たなスターになってい く。
「三匹の侍」の五社英雄
五社英雄氏が
演出した「三匹の侍」の丹波哲郎も、当時は売れない俳優の1人だった。
新東宝時代は芽が出ず、その後フリーになったところに、タイミングよく五社氏から声がかかったのだ。まず「トップ屋」に出演し、そこでの好演が認めら
れ、続いて出演した「三匹の侍」で爆発的人気を博したのである。。
それは、日本の時代劇史上、エポックメーキングな作品と言われる。奇しくも、NHK大河ドラマがスタートした1963年に放映されたことも興味深い。
大河ドラマ「花の生涯」が歌舞伎俳優の尾上松緑を筆頭に、淡島千景、佐田啓二らスター役者を揃えたのに対し、「三匹~」の方はメインの丹波哲郎、平幹二
朗、長門勇の3人とも、一般にはほとんど無名の存在だった。
だが、それが逆に五社英雄氏の演出魂に火を着ける。
大河がいわゆるスターの顔見世的な“静”のドラマに終始していたのに対し、徹底的に“動”のドラマに仕立て上げたのだ。
それが、今日まで伝説として語られるスピーディーな殺陣と、斬新な擬音である。
切られ役の端役の俳優たちに「遠慮せずに三匹の奴らを叩き斬れ!」と執拗に煽ったり、大根や藁の束をスタジオに持ち込み、人の斬られるタイミングでそれら
を切って擬音効果を上げたり――。
現在、時代劇ではそれら擬音はスタンダードになっている。
五社英雄氏は、この「三匹~」を皮切りに、その後映画界に進出。日本を代表する映画監督の1人となった。
ドラマのTBS
とはいえ、 「日日の背信」や「三匹の侍」など、草創期のフジテレビは時折スマッシュヒットを飛ばすものの、後発局のハンディもあって視聴率的には依然、苦戦してい た。 その最大の元凶は、前に大きく立ちはだかる「ドラマのTBS」の存在である。 TBS――。 民放によるテレビ放送こそ日本テレビに先を譲ったが、日本初の民放といえば、TBSである。 民放ラジオの売上げトップを誇っていたTBSがテレビ界に進出したのが、1955年4月。先発局の日本テレビが既にプロレスやプロ野球などプロ・スポー ツ分野を独占していたので、TBSは赤坂の局舎に東洋一のマンモススタジオを設置し、「ドラマのTBS」の方針を掲げる。そして開局早々、ドラマ「日真名 氏飛び出す」を放映し、ただちに人気番組に仕立て上げたのである。 だが、「ドラマのTBS」を決定付けたのは、やはり1958年に放映された「私は貝になりたい」だろう。平凡な理髪店の主人が、戦時中に上官の命令で米 兵を殺害した罪を問われ、絞首刑を執行される話である。 フランキー堺演ずる理髪店主人の「私は貝になりたい」は流行語になり、同作はその年の芸術祭賞を受賞する。以後、TBSは芸術祭の常連になり、視聴率、売 上げとも民放トップを独走していく。
ホームドラマ全盛期
また、「ドラマのTBS」を決定付けた要因として、1958年春に「東芝日曜劇場」のプロデューサーに就いた石井ふく子プロデューサーの存在も見逃せない。 彼女は新派の伊志井寛の養女であり、新東宝で女優を志した経験も生かし、その幅広い人脈で同枠をTBSの看板枠に育て上げたのだ。 また、平岩弓枝、橋田壽賀子、向田邦子といった稀代の女性脚本家たちを育て上げたのも彼女の功績。そんな女性脚本家たちが得意とした分野が、ホームドラマ であった。ホームドラマ――。 1960年代半ば、彼女たちによって書かれた「七人の孫」「ただいま11人」「女と味噌汁」といった一連のホームドラマが爆発的な人気を博したのだ。いず れもTBSの作品。これ以降、ドラマ界はホームドラマ全盛期になる。 その流れはすぐに他局にも波及した。フジテレビもしかり。 だが、やはり餅は餅屋。数々のホームドラマが企画されたが、なかなかTBSの前には歯が立たなかった。 そんな折、フジテレビの月曜8時のドラマの打ち切りが急遽決まり、提供スポンサーからホームドラマにしてほしいという要望が寄せられる。 1965年晩秋。「若者たち」が放映される3ヶ月前の話である。







